黒田官兵衛
運が開きました。天下が取れますぞ

秀吉ら信長の部下たちが慌てふためく中、
官兵衛は秀吉にこう囁いたと言われています

そして、秀吉が官兵衛の言うとおり天下人となったことは、
皆さんもよくご存じでしょう。この、黒田官兵衛は、どのような人だったのでしょうか

守るばかりの毛利より、攻め続ける織田へ!

姫路で生まれた黒田官兵衛孝高(よしたか)は、
豊臣秀吉のもとで辣腕をふるった軍師です

元服する前からその優秀さを認められ主君の
小寺政職(まさもと)に近習(きんじゅう)として仕えました
そんな官兵衛の転機は、天正3年(1575)のこと



当時、播磨は織田方と毛利方に挟まれた緩衝地帯でした

どちらにつくか悩む主君政職に対し、
官兵衛は織田信長へつくよう進言したのです。
心の慰めは、藤の花

惜しげもなく秀吉に城を譲り渡します。
そんな官兵衛の説得で、播磨の武将たちは次々と
織田の味方になり ました

ところが、天正6年(1578)三木の別所氏らが毛利に寝返ってしまいます

そのうちの一人、荒木村重を説得しようと、
単身有岡城(伊丹市)に向 かった官兵衛。ところが、
逆に捕えられ幽閉されてしまうのです

失意の官兵衛を慰めたのは、牢屋の隙間からわずかに
見える藤の花だったといわれています。
一年後、ようやく、官兵衛は部下たちによって救出されます

官兵衛は過酷な幽閉生活を信念で耐えきりましたが、
救出時には足腰が弱っていましたので有馬温 泉に湯治に行きました

これぞ中国大返し(おおがえし)!
秀吉の元へ戻ってきた官兵衛。

その変わり果てた姿に、秀吉は泣いて詫びたと言います

ですが、官兵衛の頭脳はますます冴えわたっていました。
三木城攻略の ために「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めを建策したのは
官兵衛だといわれています

以後、秀吉は、様々な戦でこの兵糧攻めを用いています

兵糧攻めは現 代人からすると非情なものに思えますが、
味方の戦力の消耗を最小限に抑える効率的な兵法だったのです
官兵衛の活躍は播磨地方だけではおさまりません。


生野銀山を押さえるための竹田城(但馬地方)攻め、
これは、官兵衛が最初に進言したといわれています

ま た、毛利氏と結んだ安宅氏(あたぎし)を攻めるための淡路及び阿波攻略、
ここでも、官兵衛は戦略をめぐらし、秀吉を助けました。
そして…、本能寺の変後、秀吉とともに「中国大返し」を決行。

速やかに毛利氏と講和し、主君の仇明智光秀を討つため京に向けてわずか
10日間で全軍を大移動させました

こうして、秀吉は、天下人への道を猛進していくのです
